<ふくしまの10年・追われた土地の記憶>
(4)山奥で開墾、収穫ゼロ
敗戦後の極度の食糧難の中、満州(現中国東北部)や海外の戦地から次々と人々が引き揚げてくる。仕事はない。政府は一九四五年十一月、大規模に農地を開墾する緊急対策事業を実施することを決める。国有林を開放し、民間の土地も強制的に買収した。
戦時下の東京で、皇居を守る特別消防隊の消防士として働いた加藤倉次さん、君代さん夫婦は、故郷福島に戻り、満州から引き揚げた人々でつくる開拓団の一員として津島村(現浪江町)の山林に入植する。倉次さんの弟が満州にいたため特例的に参加できたようだ。「引き揚げ者ではなかったから、開拓の土地を決めるくじを引く順番は最後だったと聞いています」と、娘の原田幸子さん(64)は話す。
住居は、木やササで作ったササ小屋。風呂は野天の五右衛門風呂だった。「三月下旬に行水したらものすごい寒さでした。ああいう思いはしたことがありませんでした」。君代さんの思い出話が収録されたカセットテープには、そんな言葉も残されている。
山奥の開墾は容易なことではなかった。大木を倒すのは二日がかりだった。君代さんの地下足袋はぼろぼろになり、はだしで作業した。一番簡単なのはカボチャと聞いて種をまいたが、育たなかった。一年目は何も収穫できなかった。「どうしたら生活してけんのかなって自分でも悲しくなりました」。そう語る君代さんの声はかすれていた。
「福島県戦後開拓史」(一九七三年、県農地開拓課)によると、敗戦直後の開墾のころには、農業指導も助成策もなかった。<開拓者は未改良、劣悪の土壌に加えて、営農資本の不足からほとんど無肥料に近い状態で作付を行っていたところが多かったのである>(同書より)
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