ある日、突然古里を追われたまま戻ることもできず、荒れ果てていく地域になすすべもない――。9年4カ月前の東京電力福島第1原発事故の影響で、現在も避難生活を続ける福島県浪江町津島地区の住民たちが、この集落で生きた証しを残そうと、住宅の今の姿や郷土芸能などの映像を織り込んだDVDを完成させた。古里への断ち切れない思いにあふれている。
福島第1原発から北西に約30キロ離れた、阿武隈山地の中にある津島地区。農業や林業などを産業とし、山菜や畑の野菜などを分け合い、震災当時約1400人が生活していた。だが高線量の放射性物質が降り、事故から10年目を迎えた現在も大部分の地域で帰還のめどが立っていない。
きっかけは、昨年6月、地区中心部で始まろうとしていた住宅の解体だった。津島地区全体の1・6%にあたる約153ヘクタールを「特定復興再生拠点区域」(復興拠点)とし、除染して2023年春の避難指示解除を目指す。住宅の跡地では帰還に向けたライフラインの整備や、公営住宅の建設などが計画されている。
「住民のルーツが消し去られる前に、一戸も残らず記録しなければ」。解体が始まる直前、同県二本松市の災害公営住宅に避難する佐々木茂さん(66)は、知人を介して写真家・映画監督の野田雅也さん(45)=埼玉県富士見市=に、集落にある全520戸のドローン撮影を依頼した。
山間部に住宅が点在し、手入れもできずに生い茂るままの庭木で道が塞がれる中、佐々木さんたちは住宅地図を片手に家々を探し歩いた。あの日の地震で屋根瓦が崩れ落ちたり、室内が野生動物に荒らされたりした家もある。映像を見てつらくなる住民もいるだろうと考え、撮影は住宅に接近しすぎないよう、プライバシーに配慮して行われた。活動資金はクラウドファンディングや寄付金などで賄った。
撮影に託した住民の思いはさまざまだ。佐々木さんの母は12年、避難先で84歳で亡くなり、震災関連死に認定された。母は昔の農機具や日用品など約600点を集め、自宅近くに展示室を建てて開放していた。佐々木さん宅は復興拠点から外れ、帰還の見通しは立たない。展示室の天井は雨漏りで穴が開き、資料の劣化も進んでいる。「母は遺言でも『あれだけは守って』と言っていたのに、今の状態は心が折れることそのもの。何も悪いことをしていないのに悔しい。映像を見た人は放射能災害を記憶にとどめてほしい」と話す。
復興拠点の予定地に自宅があり、福島市に避難する石井ひろみさん(70)の思いも複雑だ。転勤族の家に生まれ、20代前半で横浜から津島の旧家に嫁いだ。かまどで調理する生活や、密接な人間関係に当初は戸惑いながらも、「津島は40年かけて獲得した私の古里」と思っていた。夫は現在、築150年の家を解体する決断がつかないという。「『除染するから帰れ』と言われて帰れますか。コミュニティーがあってこその古里。あそこに生活があり、理不尽に奪われたことを伝えたい」と石井さんは語る。
2011年3月12日から福島に通い続け、飯舘村の避難者を追った映画などの作品もある野田さんは今回、住民を主体とした製作を目指した。映像の背景で流れる音楽には、住民自らが歌い演奏した、小唄や郷土芸能「三匹獅子」の調べを用いた。プロに頼らず、住民自らが方言を交えて吹き込んだナレーションの言葉は、住民に今回の活動への思いをつづってもらった手紙から引用した。
「今日は誰々の家がなくなったんだど/この更地は誰の家だべな(中略)懐かしい記憶が一つ一つ消えていくようだな」
「自分が骨になる前に帰りたい/しかしその願いはかないそうにもねえな/津島はやがて地図から消えてしまうのかな/暮らしの証しは山に返るのかな(中略)100年後の子孫へ/この物語を贈ります」
野田さんは「古里への思いは理屈じゃない。見る人が自分自身の古里を思い起こすきっかけになれば」と話した。
DVDは「ふるさと津島を映像で残す会」(佐々木茂会長)のホームページ(www.furusato-tsushima.com)から税込み1000円で購入できる。住民たちは国と東電に損害賠償を求めて福島地裁郡山支部で係争中の訴訟に、映像を資料として提出する方針だ。520戸全てが記録された完全版は年内に編集が完了し、地区住民に配布予定という。
【寺町六花】
毎日新聞 (2020年7月11日)
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